《 菊の紋章は「明治」になってから 》
次に、天皇家の「菊の御紋」についてです。
「天皇シュメール起源説」を言いつのる人々は、天皇家の紋章「十六八重表菊」がシュメールと同じだと主張し、論拠のひとつにしています。
たしかに、「菊花紋章」に似た文様が、古代のメソポタミアで使われていたのは事実です。また、サダム・フセインがもちいていたことも知られています。
ですが、「菊花紋章」が天皇家の紋章と定められたのは、今年2019年からわずか150年前のことで、明治維新の翌年(1869年)に「太政官布告」が発布されてからです。
これ以降、天皇家以外に使用することはできなくなりました。もっとも、戦後は許可を受けた神社などが使いはじめています。
なぜ、勘違いをしているのかというと、明治以降、天皇を“現人神”(あらひとがみ)と権威づける大々的なアピールによって、初代神武天皇の紀元前660年ころから、天皇は「菊花紋章」をつかっていたかのように誤解しているからです。
実際は、江戸時代には一般人がお菓子に「菊の御紋」を使っていましたし、天台宗の宗章としても「菊の御紋」は仏具などに用いられていました。
そもそも観賞用の「菊」が中国(China)から日本に入ってきたのは、奈良時代になってからです。
平安時代には「吉祥文様」として貴族などに好まれ、鎌倉時代になってようやく後鳥羽上皇(南朝)が“自らの印”として菊花紋章を愛用したのです。
南北朝並立ののちは「北朝」系天皇が江戸時代まで続きました。
そのため、南朝の天皇がもちいた「菊花紋章」は、江戸時代までほとんど使われていなかったといえます。
ところが、幕末期に尊皇思想が高まり、幕府と薩長のあいだで戦争になったとき、薩長側の岩倉具視卿が600年も前に後鳥羽上皇が「承久の乱」で授与されたとされる、だれも見たことがない「錦の御旗」(朝廷軍の旗)に「菊の御紋」をつかったことから、賊軍になるのをおそれた幕府に勝利し、「明治維新」に成功したことが大きいのです。
ということから、天皇家の「菊花紋章」は明治2年になって決定されましたので、シュメールの“菊型”にみえる「文様」とは、直接の関係はありません。
One-Point ◆ シュメールまたメソポタミアの”文様”は、一部に類似のものがみられますが、多くが日本とは逆に“花弁”にあたる部分が引っ込んでいたり、“矢車状”だったり、「菊」ではありません。シュメールの“菊型”の壁の文様にしても16花弁ではなく“20花弁型”になっているなど、中国(China)原産の「菊」が西欧に入ったのは18世紀ですし、紀元前のシュメールの時代に「菊」はなく、単に類似しているだけでまったくの別のものです。
原文有两处不友好词,个人更换为:中国(China)。其余未作修改。
简单点说,古代两河流域使用看起来似“菊花”的图案,与日本的菊花,不是一码事。
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https://japan-indepth.jp/?p=50020《日本文化と古代イスラエル 笑うに笑えない都市伝説》
空想を楽しむのは個人の自由だが、歴史論争を無用に混乱させるのは、いただけない。令和という新たな元号を採用した今、これまでタブーとされてきた天皇陵の発掘調査を行い、いにしえの日本文化の姿とその源流を「学術的に」探求することは、皇室をどう考えるかという問題とは、明らかに別だろう。
その結果、もしも古代イスラエルと古代日本に文化的なつながりがあったとしたら、それもそれで、大いに面白いではないか。私は反中嫌韓でもなければ反ユダヤでもない。生きている間に少しでも多くの、絵空事ではない知識を得たいと思っているだけの話だ。
这连接内容里有聊到“相扑”,“都市伝説”。